澤井良輔
千葉ロッテマリーンズ 32
内野手 27歳 右投左打
185センチ 86キロ
E率0.255本6点18試72
<率0.255本6点19試90>
※04年はイースタンのみの出場。1軍出場なし。
澤井良輔。
1978年3月9日生まれの27歳。
1995年ドラフト1位指名で千葉ロッテマリーンズ入団。
1軍通算90試合出場、160打数36安打6本塁打19打点。
今年プロ入り10年目となる、もはや若手とはいえない微妙な位置にいる澤井を知る人は、マリーンズファンを除けばそれほど多くはないかもしれません。
しかし、高校時代の彼は千葉の名門銚子商の主砲で、「西の福留、東の澤井」とまで謳われた大器でした。
「西の福留」とはもちろん現中日ドラゴンズの福留孝介です。
つまり、10年に一人の大器と呼ばれた選手のライバルだったというわけです。
野球に少しでも興味がある人ならば、福留を知らない人はいないでしょう。
文句無く日本を代表するスラッガーの一人です。
高校時代の澤井は、その日本を代表するスラッガーとほぼ同等の力があるとみなされていたのです。
一部のドラフトマニアの間では潜在能力なら澤井の方が上だという声もあったくらいです(その一部のドラフトマニアというのは私ですが)。
3年春の甲子園では、初戦でいきなりライバル福留のいた優勝候補PL学園と対戦します。
事実上の決勝戦といわれたこの試合、3番ショートで出場した澤井は1回表の第一打席、いきなりライトスタンドに弾丸ライナーで突き刺さる先制ホームランを放ち、ファンの度肝を抜きます。この試合、澤井の見せ場はこれだけでしたが、チームは延長戦の末勝利(ちなみにこのときPLのエースは元近鉄→現楽天の前田忠節、リリーフで登板し決勝打を打たれたのがまだ2年生だった元近鉄→現阪神の前川でした。福留はいったんは勝ち越し打となる逆転スリーランを放ち、気を吐きました。)。
強豪対決を制し、順調に勝ち進んだ銚子商の前に準決勝で立ちはだかったのは大会ナンバーワンサウスポーと評されていた藤井秀悟投手(現ヤクルト)を擁する今治西。
しかし、この試合藤井投手は足の故障のため登板できず、銚子商は今治西を破って決勝へと駒を進めます。
紫紺の優勝旗まであと一歩でしたが、決勝戦では初出場の伏兵観音寺中央高校に敗れ、準優勝にとどまります。
澤井は初戦のPL戦の第一打席にいきなり超高校級のホームランを放ち、大器の片鱗を見せ付けますが、その後はマークが厳しくなったこともあって、打撃の粗さが目立ち、尻すぼみの成績に終わりました。
強豪校を撃破しながら最後に伏兵に敗れて優勝を逃したことも併せて、今となってみれば、その後の彼の行く末を暗示していたかのように思えなくもないです。
彼の球歴はここがピークでした。
夏は優勝候補の筆頭に挙げられながら、3回戦で敗退します。
その年の秋のドラフトではライバル福留が7球団から1位指名を受ける中、最初の1位入札で澤井を指名する球団はありませんでした。似たようなタイプ(左打ちのスラッガー内野手)だっただけに、玄人の評価は福留>澤井だったということなのでしょう。
福留の抽選に外れた千葉ロッテマリーンズとヤクルトスワローズが2回目の1位入札で澤井を指名し、珍しい2度目の入札での競合による抽選の末、千葉ロッテマリーンズへの入団が決まります。
意中ではない近鉄の指名を蹴って社会人の日本生命に進み、最初は評判倒れと陰口を叩かれつつも地道に地力をつけていったライバル福留が、3年後堂々の逆指名で中日ドラゴンズに入団したとき、澤井はマリーンズのファームのレギュラーにすらなっていませんでした。
福留は1年目(1999年)から一軍でそこそこの結果を出しますが、2年目(2000年)、3年目(2001年)は守備位置の変更もあって伸び悩みます。
福留との差をつめるチャンスだったのですが、実は同じ時期、澤井も伸び悩んでいました。
澤井が入団したマリーンズが評価していたのは彼の長距離打者としての適性でした。
彼は「和製大砲」としての活躍を期待されてマリーンズに入団したのです。
しかし、彼は本質的にプロでホームランを量産するような長距離打者ではありませんでした。
彼に与えられていた天性は外野の間を抜くような打球を打つスプレーヒッターだったのです。
ホームランを期待されることで、自らの資質に合わない打撃を求められた結果、澤井が高校時代に見せていた輝きは徐々に失われていったのでした。
澤井がブレイクしかけたのは2002年のプレシーズン。
ホームランへの意識を弱め、飛ばすことよりも確実性を重視するようになった彼のバッティングは明らかに変わりました。
オープン戦での打率は5割を越え、前年不振に終わった初芝先生に代わり開幕スタメンサードの座を掴みます。
マリーンズファンは皆、その前年の2001年にオープン戦で大爆発して石井浩朗からレギュラーの座を奪い、首位打者を獲るまでに成長した2歳上の福浦のような活躍を期待したものです。
しかし、札幌ドームでの開幕戦、ミンチー−松坂の緊迫の投げ合いで続く中、カブレラの何でもないサードゴロを内野安打にして均衡が破れるきっかけを作ってしまった時点で、実質的に澤井のシーズンは終わっていました。
それは本当に、ちょっとバウンドが高いだけの何でもない普通のサードゴロだったのです。
しかも、打者は、実は意外と脚は早いものの振り切るバッティングをするために一歩目が遅くなるはずの右打者カブレラです。
あまりに動きが悪く、スローイングが不安定で遅いため、サードでは使えないということがあの瞬間に証明されたようなものでした。
しかし、当時ファーストには福浦、DHにはボーリックがいたため、澤井の守る場所は他にはどこもありませんでした。
守備で自信喪失し萎縮したことがバッティングにも悪影響を与えたのでしょう。結局その年は過去最高の41試合に出場したものの打率は.176。オープン戦での打撃開眼が嘘のような低調な成績に終わったのでした。
澤井がレギュラーの座を掴み損ねたその年、外野に固定された福留は打撃開眼、セントラル・リーグの首位打者となり、松井秀喜の三冠王を阻みます。
縮まるかに見えた差はまた広がってしまいました。
翌2003年もファームスタート。
しかし、ファームで好成績を上げ、6月に一軍に上がると、不振のボーリック、福浦らを尻目に快打を連発。
一時はクリーンナップを任されるほどの活躍でした。
しかし、オールスター前にはその好調期も終わり、またファームへ逆戻り。
確かに当時の山本功児監督に堪え性がなかったのはよく指摘されるところではありますが、守るポジションがファーストしかないだけに、打撃で結果を出し続けないとなかなか継続して使う気にはなれないのは致し方の無いところでしょう。
昨年はバレンタインに嫌われたのか、一軍での出場はなし。
精神的にも腐ってしまったのかファームでの成績も芳しいものではありませんでした。
もう残された時間はあまりありません。
あの選抜での対戦から10年、気が遠くなるほど開いてしまった福留との差を少しでも縮めるために澤井は今年も現役を続けます。
そのチャンスが与えられるのはもうそれほど長い期間ではないでしょう。
澤井の打撃の一番の特徴は変化球打ちの巧さです。
普通一軍に定着できない選手の欠点は変化球が打てない点にあることが多いのですが、澤井の場合は逆です。
特に右投手のインローに来るスライダー系の変化球の捌き方は非常に巧いものがあります。
むしろストレートに力負けするシーンが多く、それが何となく彼の完成した限界を示しているように見えて、起用を躊躇される一因となっているのでしょう。
常時使えば.270〜.280、二桁本塁打は打てる実力はあるでしょうが、ファーストないしはDHでしか使えない選手の期待値として、それはあまりに低すぎます。
つまり、澤井が福留に追いつくためには、打撃で福留に匹敵するような成績を上げるしかないということです。
その可能性はゼロではない、と、今は書いておきましょう。
♪澤井 澤井 澤井 もう迷うことはないよ。
僕は 君を 応援するよ いつも 君のために♪
(ガガガSP「卒業」のメロディーで)