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吉良俊則
オリックス・バファローズ 63
外野手 19歳 左投左打
179センチ 82キロ
W率0.250本0点0試10
<一軍出場はなし>
1986年1月1日大分生まれ。
2005年3月現在いまだ公式戦に出場したことのない、2年目に入るところの「磨き始めたばかりのダイヤの原石」である。
見た目はまだあどけなさの抜けない、子犬のような目をした可愛らしい少年だ。
柳ヶ浦高に所属していた高校時代、吉良はその童顔に似合わず高校通算54本塁打を放った強打者だった。
新人選手選択会議=ドラフト会議の前には11球団から「欲しい」と言われていた、高卒選手の中では目玉のひとり。
吉良はダイエー(当時)ホークスか西武ライオンズに入団することを希望していた。
高校生は好きな球団を選んで入団することはできない。
入りたい球団が運良く指名してくれることを祈るしかない。
しかし祈りは届かず、吉良を指名したのは大阪近鉄バファローズだった。
志望球団以外なら大学進学すると公言していた吉良はしかし、バファローズに入団することを選ぶ。
「55本塁打」と記した下手くそな字のサイン。
それは54発男のプロへの意気込みを小さい色紙いっぱいに膨らませた瞬間だったのかもしれない。
契約金は漁業を営む父親に漁船を買ってあげるのに使ったという親孝行息子。
一軍デビューの時はそのお父さんが大阪ドームで大漁旗を振って応援すると公約していたっけ…。
バファローズに入団した吉良の素質を見込んで熱心に指導したのは故鈴木貴久二軍打撃コーチだった。
「欠点を指摘して修正するのではなく、長所をできる限り伸ばしてやる。そうすれば欠点などカバーできるようになる」
という主義だった鈴木貴久コーチは、大西・下山(現オリックス)や山下(現楽天)らを育て一軍へと送り出していた。
この年(2004年)、近鉄とオリックスとの合併が発表される一ヶ月ほど前に突然他界した鈴木貴久の、末っ子弟子だった吉良。
3月に肘を痛め手術することになってしまい、鈴木コーチもさぞや草葉の陰で「もう少ししごきたかった」と心残りだっただろう。けれど、吉良にもたしかに「いてまえ魂」は継承されたと私は信じている。
2004年9月、選手会によりストライキが決行された時、バファローズ選手会は藤井寺球場でサイン会を行った。終わる頃、私はフェンスにもたれてグラウンド内で行われていた野球教室を眺めている吉良を見つけてサインを頼んだ。吉良はやっぱりまだ大きな目のあどけない可愛らしい少年のようだった。
合併による分配ドラフトにより、吉良は「オリックスバファローズ」に所属することになる。
でも、私は実はこっそりと吉良の背番号の「近鉄バファローズ」のレプリカユニフォームを作った。オリックスで新しく与えられた「63」ではなく、もちろん「39」の。
着ることはないのだろうけど、いつかそれを持っていることを自慢したいなぁと思って。
まだ公式戦の経験もない19歳のあどけない少年。
だけど、数年後のホームラン王かもしれない。
翻る大漁旗は、当たり前の風景になるかもしれない。
そんなワクワクを感じながら若い選手を見るのも、楽しいもんですよ。
text byさいん
day by day
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見たいの極致。