福留孝介
中日ドラゴンズ 1
外野手 28歳 右投左打
182センチ 85キロ
率0.277本23点81試92
<率0.293本120点392試721>
中日ドラゴンズ 1
外野手 28歳 右投左打
182センチ 85キロ
率0.277本23点81試92
<率0.293本120点392試721>
中日ドラゴンズ所属の外野手。右投左打。
1977年4月26日鹿児島県生まれのB型。
野球を始めたきっかけは、地元のスポーツ少年団のソフトボール。小学生の頃からスポーツ好きの父に連れられ、中日ドラゴンズのキャンプを見学していた。そ
こで憧れを抱いた選手というのが、PL学園の先輩であり、また現在チームメイトとしてプレーしている立浪和義選手だった。
PL学園高校では、2年春と3年の春夏の3度、甲子園に出場。3年夏の大会では優勝候補との呼び声も高かったが、準々決勝で敗退。最後は、主将を務める自らの併殺打だった。
「超高校級スラッガー」と、1995年のドラフトの目玉選手としてクローズアップされる。本人の志望球団は中日か讀賣であり、それ以外の球団が交渉権を得た場合は社会人野球の強豪・日本生命への入社を表明する。
運命のドラフト。7球団が1位指名をし、交渉権を得たのは近鉄だった。就任したばかりの佐々木監督が赤いふんどしを着けてくじ引きに臨み、「当たりくじ」を引いたときに
「ヨッシャー!!」
と叫んだことは、今でも伝説となっている。「ヨッシャー!!」の叫び声も空しく、福留選手は自分の意見を曲げずに日本生命への入社を決める。このことから、「鉄の意志をもつ男」とイメージを持たれるようになる。要は自分の意志を曲げない頑固さを持っている、ということか―。
1996年、日本生命に入社。守備位置は、高校時代に守っていたショートではなくてサードだった。
アトランタオリンピックの代表選手として、銀メダル獲得に貢献。オリンピック後の第67回都市対抗野球大会では、新人賞に相当する「若獅子賞」を受賞する。また大会優秀選手にも選ばれた。しかし、ベストナイン選考では「守備に問題があるため」バルセロナオリンピック代表選手にその座をさらわれてしまう。
翌97年はチームは東京スポニチ大会と都市対抗を制覇するも、2年目のジンクスからか、国内外の大会で思うような活躍ができなかったようである。
98年はいよいよプロ解禁。秋の日本選手権でチームを準優勝に導き、3年目にようやくベストナインを受賞(三塁手)。遂に、中日を逆指名し、ドラフト1位で入団する。憧れだった立浪選手と同じユニフォームを着て、プロ野球選手としての一歩を踏み出す。背番号は「1」。
1999年、中日に入団して最初に守ったポジションは、高校時代と同じショートだった。しかし、守備はプロのレベルとはいい難いもので、試合終盤には名手・久慈選手に代わられることもしばしばだった。
それでも、天性のバッティングセンスを埋もれさせてはならないと、次第に外野の練習にも取り組むようになる。これが吉と出て、バッティングもアマチュア時代の長距離ヒッターから、現在のようなアベレージヒッターへのモデルチェンジを果たす。
外野手に正式に転向したのは2002年。この年の終盤、あのゴジラ松井選手との熾烈な首位打者争いを制し、首位打者として初の個人タイトルを獲得する。
翌2003年6月8日、ナゴヤドームでの中日×広島第14回戦。この試合で、福留選手は史上55人目のサイクルヒットを達成する。ホームランはなんと、満塁ホームラン! 新人時代にもあわやサイクルという試合もあったので、そのときのお返しでもあった。
この年、札幌でアテネオリンピックのアジア予選が札幌で開催された。この大会で打率5割の好成績を残し、アトランタオリンピック以来、約8年ぶりとなるオリンピック代表選手にも選ばれた。
昨年はアテネオリンピックでチームを離れることもあったが、主軸打者としてチームの優勝にも貢献した。主に4番を打っていたが、今年からは横浜から移籍し
てきたタイロン・ウッズ選手という超特大アーチを売り物とする打者が4番に座ることが予想されるため、3番打者として起用されると考えられる。
福留選手、公式ホームページを持っているので、近況などはこちらで確認すると良いだろう。
自分の意志を強く持ち、また日々進化しつづける打者―それが福留孝介なのである。
text by ぼんのすけ
ぼんのすけこっそり日記
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