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坪井智哉
(つぼい・ともちか)
外野手 31歳 右投左打
177センチ 79キロ
率0.284本11点43試89
<率0.297本30点196試664>
坪井智哉
(つぼい・ともちか)
外野手 31歳 右投左打
177センチ 79キロ
率0.284本11点43試89
<率0.297本30点196試664>
2004年9月20日。
史上初のストライキが開けた札幌ドームに、ユニホーム姿のゴレンジャーが突如現れた。一斉にグランドへ飛び出して守備練習をする5人の姿に、4万人の観客が酔いしれた。
この日ゴレンジャーを結成したのは北海道日本ハムファイターズの外野手5人だった。提案者はもちろんSHINJO選手。ストで迷惑をかけたファンにせめてものお詫びがしたい……その思いが残る4人を動かした。
アカレンジャー、森本稀哲。アオレンジャー、島田一輝。キレンジャー、SHINJO(新庄剛志)。モモレンジャー、石本努。
そして、ミドレンジャーを務めたのがここで紹介する選手、坪井智哉である。
坪井は1974年2月19日に名古屋市で生まれた。名古屋と大阪で少年時代を過ごした後、PL学園高校に入学。甲子園出場は果たせなかったものの、選手として試合に出ることすら困難な強豪チームで主力選手として活躍した。
卒業後は青山学院大学に進学。選手として3度のリーグ制覇を成し遂げたのみならず、1993年には大学選手権初出場初優勝も果たしている。さらに大学卒業後は社会人の東芝に入社、ここでは96年に日本選手権でベスト4に進出し、首位打者と社会人ベストナインのタイトルを獲得している。
話がそれるが、現在坪井が打席に入る時には応援団によってファンファーレが演奏される。これには「♪PL〜、青学〜、東芝〜、(阪神!)」と続く歌詞がついており、演奏前には応援リーダーから「坪井選手の輝かしい人生を歌ってー!」という掛け声がかかることがある。
これまでの話からすれば、応援リーダーの言う通り坪井が素晴らしい実績を収めたことは理解していただけるであろう。これまでの話では。
しかし、ここで書いた歌詞の一番最後、日ハムファンが叫ぶ「阪神!」。ここで坪井が味わったのは栄光だけではなかった。
1997年の秋、坪井は阪神タイガースに入団する。背番号は32。すると翌年にはいきなりレギュラーで大活躍。惜しくも新人王こそならなかったものの、一流打者の条件の1つとされる打率3割を突破したばかりか、新人選手としての最高打率の記録を打ち立てた。
快進撃は翌年も続いた。ホームランこそ少ないものの、こつこつとヒットを量産してくれる坪井は、チームの長期低迷に悩む阪神ファンにとって数少ない希望の星だった。
しかし、2000年にはその勢いが失速してしまう。打率、ヒット数ともに前の年をかなり下回ったのだ。さらに2001年、2002年にはケガが重なり、出場試合の数が大幅に減ってしまう。
特に2002年の左足骨折は本人にとって大きな痛手となった。そしてこの年のオフシーズン、坪井は山田捕手、伊達投手とともに日本ハムファイターズ(当時)へとトレードされた。
不振が続いたとはいえ主力選手のトレードはファンに大きな衝撃を与えた。当時は阪神のみのファンであった私自身も坪井には思い入れが強かっただけに、この一報を聞いたときは全く理解ができなかった。「ウソやろ……なんで、なんで坪井を出さなあかんねん!」怒りすら覚えた。
ファンですらこうなのだから、まして本人はもっと大きなショックを受けただろうし、辛かったに違いない。それに、はっきり言ってしまえば人気球団からの放出である。このようなトレードで腐ったまま現役生活を終えたとしても、全くおかしくないのだ。
しかし、坪井はそんな選手ではなかった。移籍先の日本ハムでは以前のような打撃が復活、外野のポジションを奪うと、チームメイトの小笠原と首位打者争いを繰り広げるほどの活躍を見せた。新天地を得た坪井は見事に甦ったのだ。
そして去年。北海道移転元年に加えかつて阪神でともにプレーしたSHINJOの加入もあり、坪井は更なる躍進を遂げる……はずだったが、故障続きで前年ほどの成績は収めることができなかった。
とはいえ、これは以前の繰り返しでは決してないだろう。この年のホームラン数は11本と過去最多となっており、これまでのようなヒットのみならず一発も期待できるようになりつつあるのだ。
坪井は今年も外野のポジション争いからを一歩リードしている。順調に行けばライトの定位置は間違いなく彼のものだろう。
輝かしい人生から一転して挫折を味わい、そこから這い上がって輝きを取り戻した坪井。彼がシーズンを通じてその実力を発揮するとき、ファイターズにも優勝の輝きがともるはずだ。
text by ルパート・ジョーンズ
にわか日本ハムファンのブログ
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