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寺本四郎
千葉ロッテマリーンズ 61
外野手 25歳 左投左打
175センチ77キロ
E率0.316本5点37試75
<率0.250本0点0試23>
寺本四郎
千葉ロッテマリーンズ 61
外野手 25歳 左投左打
175センチ77キロ
E率0.316本5点37試75
<率0.250本0点0試23>
“松坂世代”という言葉をご存じだろうか?
1980年4月2日生まれ〜1981年4月1日生まれの同級生野球選手の総称を野球ファンはこのようにくくる。
何故、“松坂”世代なのかといえば、この学年の中心人物がご存じ柴田元日本テレビアナの旦那であり、日本球界のエースとして君臨している西武ライオンズ・松坂大輔投手その人だからである。
だから、要するにこの世代でイチロー選手が生まれていたら“イチロー世代”になっただろうし、松井選手が生まれていたら“松井世代”になった事だろう。
しかし、イチロー選手の同級生を“イチロー世代”と言うくくり方は基本的にはしない。この“〜世代”という言い方は今のところ松坂投手とその同級生達にだけ用いられる。
その主な原因として、松坂投手の同級生には、プロ野球界のエースとして活躍している選手、またはこれから大活躍するであろう有望な選手が多くいるからである。
例えば、ソフトバンクスの和田毅投手、新垣渚投手、巨人の木佐貫投手、久保投手、広島の東出選手、永川投手、横浜の古木選手、村田選手・・・他にも多く在籍している。
前置きが非常に長くなってしまったが、今回紹介しようと思っている寺本四郎選手も、松坂世代だ。
高知県の名門・明徳義塾から98年ドラフト4位で千葉ロッテマリーンズへ投手として入団。
期待され、入団二年目から一軍のマウンドへ数試合登板はしていた。しかし、入団三年目。高校時代から定評のあった打撃を活かす為に野手に転向。
打撃成績は年々上昇し、一軍でも何本かヒットを放っているが、守備、走塁はまだ、勉強中だ。
プロ野球選手としては、未だ、結果の出ない寺本選手だが、高校時代は、松坂投手と同じ位人気を博した選手であった。彼の名を一気に有名にしたシーンがある。
1998年夏の甲子園大会、準決勝。
相手は松坂大輔擁する横浜高校。
前日、PL学園との延長17回の死闘を戦い抜きチームはボロボロだった。松坂投手は250球を投げ抜きこの試合は登板しない予定だった。
ところが、横浜高校はこのゲーム窮地に立たされることになる。
七回を終わって0−6と明徳義塾に圧倒的にリードを許していたのである。横浜高校もここまでか・・・。と誰もが思ったいたはずだ。
ところが、八回、九回で試合は予想外の展開を見せる。
八回に怒濤の連打でまずは四点を返した横浜高校。その勢いに乗って横浜は明徳義塾の九回の攻撃に松坂投手を登板させる。テーピングを右腕からはぎ取るシーンはまさに、漫画のヒーローそのものだった。そのイニングを無難に抑えると、横浜高校の打撃陣はますます力を発揮し、明徳義塾の二番手高橋一正投手を攻め立てついに、サヨナラの場面までこぎつける。
サヨナラの場面を迎え、一塁にいた寺本選手が再びマウンドへ向かう。
明徳も、エースを勝負所へ投入しこの場面を乗り切ろうとした。ところが、横浜の勢いは止めらなかった。
横浜・柴選手の放った打球はフラフラッとセカンド後方へ飛びポトリと落ちた。
その瞬間、マウンドに覆い被さるように泣き崩れていたのが寺本選手だった。寺本選手だけでなく、明徳ナインは全員泣いていた。
僕は、今でもこの試合が甲子園大会のベストゲームだと思っている。
そして、僕が高校野球を志したのもこの試合を見たからなのである。泣き崩れる寺本選手の涙、力無くうずくまるその姿に優しく語りかけていた松坂投手・・・。激闘の先にあった友情に感動した。
今年でプロ七年目を迎える寺本選手。ロッテの外野陣は新戦力を迎え層が分厚くなった、まだまだ成長しなければならない面は多いだろうがまずは、左の代打として一軍に定着してもらいたい。そして、プロでも松坂投手との名勝負が見たい!
今年は、彼の名前を一軍の試合で多く聞きたいと願っている。
寺本四郎 千葉ロッテ所属 外野手 左投げ左打ち。
※成績のEはイースタンリーグ(二軍)の成績です。
昨年、寺本選手は1軍出場がありませんでした。
text by山本球
山本球の『球音日記』
山本球の『球音日記』
けど、高知の明徳に行って本当に良かったなと思いました。
寺本は徳島の星です。川上や武田に続け!